序文
深い雪に閉ざされた越後・塩沢の地から、江戸の世に向けて放たれた一冊の本がある。のちに日本屈指のロングセラー、そして民俗学の金字塔となる『北越雪譜』──。その刊行までに、なんと「四十年の歳月」が費やされたことをご存じだろうか。
木内昇氏の長編小説『雪夢往来』(せつむおうらい)は、縮(ちぢみ)の仲買商でありながら郷土の風俗や雪国の綺談を書き留めた鈴木牧之(すずきぼくし)の情熱と、彼を取り巻く江戸の売れっ子戯作者たちのうねるような人生模様を鮮烈に描き出した傑作である。書くことにとり憑かれた者たちの、果てしない夢と現実の往来が今、静かに幕を開ける。
主題
本作の大きな主題は、「人はなぜ書き、なぜ世に問うのか」という、表現の根源にある衝動と業(ごう)の問い直しにある。
物語は、牧之が江戸で抱いた「雪国の真の姿を江戸の人々に伝えたい」という純粋な思いから出発する。しかし、地方の素人が書いた原稿が江戸で本(板本)になる道のりは、版元の思惑、金銭的な壁、そして仲介者たちの死や裏切りによって幾度も阻まれていく。
山東京伝の冴えた慧眼、曲亭(滝沢)馬琴の野心と苦悩、そして京伝の弟・京山の兄弟としての葛藤など、実在した文人たちの視点が交錯する中で、筆を執ることの残酷さと喜びが浮き彫りになる。
遠く離れた越後と江戸を「文(ふみ)」と「縁」で繋ぎ、夢を諦めなかった者たちの姿を通じて、木内昇氏は「表現する営みとは何か」という普遍的なテーマを読者に突きつける。
物語が進む中で、印象的なひとこと 「夢というのは一度見てしまうと、そこから逃れられぬものかもしれぬ。かならず板木にしなければならない。~」(本文355頁) 「これがなければ、私の人生はもっと穏やかであったと思えば、ものを書くことに出会うたとのを恨む心持にもなりまする。~」 主人公・牧之の心情をうかがえるひとことです
むすび
四十年の歳月を経て、ついに『北越雪譜』が世に出たとき、そこにあったのは単なる出版の喜びだけではない。それは、過酷な自然と共に生きる人々の営みを後世に残そうとした、名もなき商人と江戸の表現者たちが交わした「魂の約束」の成就であった。 ページをめくるたび、雪を踏みしめる足音と、江戸の板元たちの喧騒がリアリティをもって立ち上がってくる。私たちが何気なく手にする「本」という存在の重みと、そこに込められた先人たちの途方もない執念に心打たれる一冊である。情報にあふれる現代にこそ、じっくりと味わいたい至高の歴史長編と言えるだろう。



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